■ 福井空襲について ■
第二次世界大戦、戦時中の昭和20年(1945)7月19日。
夜10時頃にB29爆撃機127機の編隊が福井市に来襲しました。
まず市外周部に照明弾を投下し、徐々に中心市街地、福井城址北西付近を中心に半径1.2キロメートルの範囲をめがけて、81分間の集中的な爆撃で、約9,500発、865トンもの焼夷弾が落とされました。全国最大の被災率といわれ、95%が市街焼失(2万戸以上)し、
9万人以上の市民が罹災。死者数は1500人をこえる被害となりました。
福井市内は一面の焼け野原となり、防空壕に避難していた人々は熱気で蒸焼きとなり、水を求め福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は折り重なって亡くなられた言われています。
「お堀の灯り」は、福井空襲や震災などで亡くなられた方々の鎮魂の意味が込められています。
■福井空襲・参考ホームベージ
福井市における戦災の状況(福井県)
図説福井県史 近代23 敦賀・福井空襲(1)
福井空襲 - Wikipedia
■ 福井震災について ■
福井震災(昭和23年6月28日)
福井震災・市役所から北西方
戦後復興間もない福井の昭和23年(1948)6月28日16時13分29秒(当時はサマータイム0導入、夏時間では17時13分) 福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近 (北緯36度10.2分、東経136度17.6分)を震源とするマグニチュード7.1の直下型地震が発生しました。
この地震を契機に、気象庁震度階には震度7が制定されました。
地震発生当時は、第二次世界大戦後最多の死者を出した地震でした。福井震災の死者数は平成23年(2011)3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、平成7年(1995)1月17日の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に次ぎ第3位です。死者は当時あわせて人口20万余りにすぎなかった福井市・坂井郡(現坂井市)に集中していました。
また、この地震による死者の主な原因は火災でありました。鎮火までに5日かかったと言われ、その被害は甚大でした。
この福井震災で福井城のお堀も大きく崩れ、現在も、福井城控天守台跡の石垣には、その傷跡が残ります。
福井震災・福井城お堀石垣
【人的被害】
死亡者3,769名 負傷者22,203名
【住家被害】
全壊36,184戸 半壊11,816戸 焼失3851戸
福井震災・旧繊協ビルから北方
福井震災県庁内の対策本部
福井震災・大きく傾いた福井市内のビル=同市広報課提供 福井1福井版用
※福井震災・福井地震の写真で「提供/福井市」と記載してある写真は、
郷土歴史博物館ふくいの歴史アーカイブス「福井市広報課写真帳」に記載されている写真です。
福井城址お堀の灯り実行委員会が、福井市に写真の使用許可を頂いて
使用していますので「ふくい城址お堀の灯り」ホームページ以外での使用は出来ません。
外部動画(You Tube 「8282typhoonさん」のチャンネルより)
※再生すると音声が流れます。
■福井震災・参考ホームベージ
図説福井県史 現代2 福井震災(1)
福井地震 - Wikipedia
■ 福井城周辺の福井空襲・福井震災の傷跡や記念碑など ■
● 福井城控天守台跡の石垣 ●
福井城控天守台跡の石垣には、福井震災の傷跡が残ります。
説明板には「この控天守台跡の石垣には福井震災(一九四八年六月)等による崩壊の跡が残っています。
厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠なる時の流れに思いを馳せることができます。」と書かれています。
● お堀前にあった福井大震災記念碑 ●
福井城址のお堀沿い歩道に、福井大震災の記念碑がありました。お濠ばた崩壊と、大和ビル崩壊のレリーフが装飾されていました。
(現在は周辺整備のためご覧いだけません)
● 大手観音 ●
福井市役所の第2別館の北東の角には、大手観音があります。説明板には、「 昭和二十年七月十九日夜半福井大空襲の際、福井郵便局電話課の職員など二十三名が殉職しました。
昭和三十九年遺族及び職員有志により福井市中央一丁目十七ノ十六福井電報電話局市外局中庭に観音像を建立し、慰霊してまいりましたが、昭和六十二年一月市外局の当地移転に伴い、この地に移しました。
昭和六十二年一月 NTT福井支社 福井電報電話局
平成七年が戦後五十年の節目にあたることから、恒久平和を願い観音堂を建てて安置することにいたしました。
ここに殉職者のご冥福をお祈りいたしますとともに、あらためて平和の喜びをかみしめ合いたいと思います。
平成八年三月 NTT福井支店 全電通福井県支部
」と書かれてあります。
● 中央公園の震災記念碑 ●
福井城の西隣りに位置する中央公園には、昭和23年(1948)6月28日に発生した福井地震を記念して建てられた記念碑があります。この地震は 、マグニチュード7.1で福井市では震度6を記録しました。戦後では、平成23年(2011)3月11日の東日本大震災、平成7年(1995)1月17日阪神・淡路大震災に次ぐ被害を出しています。
この記念碑には「昭和二十三年六月二十八日 突発せる激震により 本市は瞬時にして壊滅の悲運に遭遇した 此碑は此未曾有の災禍を永久に記念するために建てたものである 市民は常に此災禍を想起して 心を戒め 身を慎むと共に当時寄せられた内外の温かい同胞愛と人類愛を胸に刻み 感謝報恩の念に燃えつ、日常の業務にいそしまねばならない 福井市」と書かれています。
また、この中央公園には、他にも福井が生んだ偉人たちの像があります。
● 市民憲章の碑 ●
福井市の市民憲章が書かれた不死鳥(フェニックス)をモチーフにしたオブジェ(碑)。
(※現在は中央公園が新しく整備されたためご覧いだけません。)
※福井市のHPに「不死鳥のねがい」の由来、市民憲章については、福井市のHPをご覧ください。
→
http://www.city.fukui.lg.jp/d620/syougai/kensyo/index.html
● 福井神社のイチョウの木 ●
福井神社のイチョウは、樹高さ22.7m目通り3.6mの大木で、福井市指定の天然記念物(昭和45年指定)です。
「このイチョウは昭和20年7月19日の戦災にあい、大きな傷手をうけて枯死したかに見えたが、その後新芽を出し枝をつけてもとのごとく木勢をとり返した。不死鳥福井のシンボルともいうべき木であり、福井を象徴する名木として特に指定された。 福井市」
● 福井神社の社標 ●
境内に建っている福井神社の社標は、神社建設当時からあったものですが、福井大震災の際に倒壊し、堀の中へ転落したと言われていました。その後昭和58年(1983)に発見され、復元設置されました。
■ 順化地区万霊供養塔 ■
「順化地区万霊供養塔」は、昭和42年8月に福井城址内の御本城橋のたもとに、戦災、震災によるお堀の犠牲者供養のために建立されましたが、その後諸事情により足羽山西墓地公園の一隅に移転されました。その後、この供養塔に合祀される範囲を広げて、不慮の交通事故により亡くなられた方、順化地区に有縁の故人の霊をも慰め供養するようになりました。
建立以来、毎年10月には慰霊祭を行ってまいりましたが、参加者の高齢化が進み、西墓地では遠いため、集まるにも難しい状況となりました。地元の多くの方々から「順化地区万霊供養塔」には、戦災、震災時にお堀で亡くなった人々を祀っているので、2015年(平成27年)の戦後70年を機にゆかりの場所としてお堀の付近に戻してほしいという要望が出てきました。
そこで、福井市の了承や地区の皆様からのご寄付などのご協力を頂き、平成27年10月、順化小学生徒登校門横の順化緑地内(福井神社所有地)に移設いたしました。今後も多くの地区の方々の参列のもと、盛大な供養が地区行事として継承されていきます。
順化地区万霊供養塔 建立除幕式 昭和42年8月27日
順化地区万霊供養塔(足羽山西墓地に移転当時)
西墓地にあった頃の順化地区万霊供養塔
● お堀の灯り周辺マップ ●
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