■ 福井城の歴史 ■
福井のまちは、戦国時代の天正3年(1575)に織田信長より越前支配を委ねられた柴田勝家が築城した北ノ庄城の城下町として形成されはじめました。柴田勝家は、羽柴(豊臣)秀吉に賤ヶ岳の合戦で敗れて居城の北ノ庄城に退き、天正11年(1583)4月24日、お市の方とともに北ノ庄城で自害しました。柴田勝家が築いた北 ノ庄城(きたのしょうじょう)はわずか一代8年で焼失したのです。
その後、慶長5年(1600)、関ヶ原に勝利した徳川家康は、2男の結城秀康(2代将軍秀忠の兄)を関東の結城から越前68万石北 ノ庄に移封しました。
福井藩主となった結城秀康は、慶長6年7月28日越前に入部し、柴田勝家の北ノ庄城を取り囲む形で拡充して、新北ノ庄城(福井城)の築城を開始、6年をかけて慶長11年(1606)に完成しました。
一説によれば、本丸・二の丸は家康縄張りといわれており、家康の命により全国の大名が手伝普請にあたったと言われています。高さ約37m四層五重の雄大な大天守に、足羽川と荒川を外堀とし、旧吉野川を百間堀に利用した四重・五重の堀と石垣、多くの櫓や城門をもった巨大な城でありました。
福井城は、石垣をはじめ、天守・櫓等の石瓦、基礎石など建物の多くに、地元福井市中心部の足羽山で採石された笏谷石が使用されました。その石垣は青緑色で美しく、横のラインが通った「布積み(ぬのづみ)」の「切込接ぎ(きりこみはぎ)」という積み方で、これは第1級の城(二条城や江戸城)の積み方と同じです。福井城の石垣の特徴は、すべて同じ石、足羽山の笏谷石が使われていること、すべて小さい石で、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりだったことです。
築城以後、約270年間、幕末まで越前松平家の居城となったのが、この福井城です。
福井は、元々「北ノ庄」と呼ばれていましたが、「北」の字が「敗北」につながるので不吉であるとして、3代藩主・松平忠昌(1598~1645) によって「福居」と改められ、その後「福井」とさらに改められたと言われています。また控天守台の横手の井戸「福ノ井」が福井の由来になったともいわれています。その「福の井」は、結城秀康が福井城を築く以前からこの地にあったといい、名井として知られていたそうです。
また、壮大な天守閣は、本丸御殿をはじめ侍屋敷379軒、町家2676軒が焼失した寛文9年4月15日の大火で焼失、以後再建されることはありませんでした。
明治維新後には、福井城の内堀以外の堀は埋められ、福井の市街地として整備されたましたが、昭和20年(1945)7月19日の福井大空襲で市街の95%が破壊されました。復興まもない昭和23年(1948)6月28日の福井大地震で 福井市街は再び壊滅的打撃を受けました。その福井空襲、福井地震では、福井城のお堀周辺でも多くの命が失われたのです。福井市は、その壊滅的被害から復興し、不死鳥のまち福井と呼ばれています。
■ 歴史を受け継ぎ、新たな文化を創造する県都 ■
県民会館跡地周辺では、城址と中央公園の一体性を高める公園整備が行われています。
石垣の遺構を公園デザインに活かし、歴史が感じられ、緑の多い開放的な公園を整備しています。また、これまで整備してきた天守台跡、福の井や御廊下橋との連続性を活かして、その導線上にある山里口御門が2018年に復元完成いたしました
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資料提供/県都デザイン戦略
■福井城・参考ホームベージ
《山里口御門の復元について》
福井県ホームページ
《中央公園周辺再整備について》
福井市ホームページ
《福井城の関連史跡》
松平家別邸「養浩館(御泉水屋敷)」
名勝「養浩館庭園」ホームページ
瑞源寺本堂(本丸御殿小座敷を移築)
瑞源寺書院(本丸奥御座の間移築)
「瑞源寺」ホームページ
《福井城の絵図 等》
福井県立図書館 デジタル歴史情報