福井市史 資料編13 民俗/第五章 経済生活(一)五 採石・製塩
販売
大正3年における石工の労賃は1日30〜40銭、尺六石1本の値は70〜90銭、当時の米価は1俵4円であった。
それに比べ、昭和53年における石工の労賃は1日8千〜1万円、尺六石1本の値は、青手4,000円、中手3,300円、黒手2,800円、米価は1俵2万4千円である。石の値段の上昇率は米価のそれとほぽ同じであるが、石工の労賃の上昇率は石や米に比べて著しく大きい。
足羽川の流れは、昭和初期までは現在の花月橋のあたりから左へ曲がり、笏谷の丹巌洞前が舟着き場になっていた。石材はここから石積み船に積み込まれた。一そうに尺六石300本も載せた船もあった。
石材は、船によって三国港まで運ばれ、三国の石問屋で相場が成立した。昔は、その石材がさらに北前船に積まれて、加賀・能登をはじめ日本海沿岸の港、遠くは北海道の松前まで運ばれた。
それに比べ、昭和53年における石工の労賃は1日8千〜1万円、尺六石1本の値は、青手4,000円、中手3,300円、黒手2,800円、米価は1俵2万4千円である。石の値段の上昇率は米価のそれとほぽ同じであるが、石工の労賃の上昇率は石や米に比べて著しく大きい。
足羽川の流れは、昭和初期までは現在の花月橋のあたりから左へ曲がり、笏谷の丹巌洞前が舟着き場になっていた。石材はここから石積み船に積み込まれた。一そうに尺六石300本も載せた船もあった。
石材は、船によって三国港まで運ばれ、三国の石問屋で相場が成立した。昔は、その石材がさらに北前船に積まれて、加賀・能登をはじめ日本海沿岸の港、遠くは北海道の松前まで運ばれた。
禁忌
朝、石山へ出勤するとき、人を誘わない。石山は危険の多い仕事場だからとのことである。また先に述べたように、石山へ持って行く弁当は、仏さんのごはんといっしょに別火で炊いて作った。
以上笏谷石の採掘法から禁忌に至る記事は、大久保まさ子の調査に基づくものである。
以上笏谷石の採掘法から禁忌に至る記事は、大久保まさ子の調査に基づくものである。
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